日経新聞 3月5日朝刊「詩歌・教養」欄の「詩歌のこだま」で、小池昌代さんが大谷良太さんの『薄明行』(詩学社)について書いています。この詩集にはあとがきも、著者の紹介もなく、ただ詩があるだけだそうです。
その詩集を小池さんがすばらしい読解力で解説をしてくれています。こうした読み方もあるものかと驚いています。詩、特に現代詩はむずかしくなったといわれますが、そうではないと思います。いい案内人がいなかっただけです。
例えば、小池さんの文章ですが、しっかりとした意志のある言葉です。
<(前略)この「私」は、勿論そのまま著者自身でないにしても、詩の言葉はどうみても「虚構」という面構えをしていない。脆いほどの素顔をさらしていると感じられる。そこが無防備で瑞々しい。平凡な日録という内容だが、どの詩の中心にも孤独の芯がある。乾いて厳しいという質のものでなく、暮らしの油と汗の付着した、どこか懐かしい孤独である。>
また、「ひかるもの」をいう詩を取り上げて、パチンコ玉に
<それも孤独なひとの、目と心を惹くようなところがある>といい、また
<それは小さいのに奇妙な重さをもち、しかもくっきりと光っている>といいます。ただのパチンコ玉なのですが。
こうした言葉に目の覚める思いがします。大谷良太さんの詩も確かにいいのですが、いい読み手に出会えてこそなのです。そして私は小池さんの詩人としてのものを見る力と人を理解する力を学びたいと思うのです。
しかし書いていて、どうも隔靴掻痒の感あり。やはりこの詩集を読むべきですね。